今回の舞台は上諏訪。水辺環境を巧みに利用したまちの歴史とはー?
諏訪藩・高島城の城下町であり、甲州街道の宿場町でもある上諏訪の市街地。今回は城下町を意識した目線で巡ります。縦横に走る水路と諏訪湖、そして山裾に張り付くように走る街道。地形や地質が諏訪のまちづくりにどのような影響を与えてきたのでしょうか。まちの魅力を探っていきます。
上諏訪駅から車で5分ほど東に向かうと小高い丘に高嶋城(茶臼山城)跡があります。諏訪湖近くに現在残っている高島城が築城される前に「高嶋城」と呼ばれていました。周囲の地形を利用した山城で諏訪地方を治めるのにこの地に城を築いたと見られます。新しい高島城が築かれ茶臼山の高嶋城は廃城となり、諏訪地方を統治した当時の城の遺構は残念ながらほとんど残されていません。
諏訪藩の総鎮守とされる同社は、上諏訪の市街から長い石段を登り切った場所に鎮座します。社域の周辺には古代人の遺跡が見られるなど、古くから人々の暮らしの中心であったことがうかがえます。
また文化財価値の高い立川流の立派な幣拝殿は、昭和時代の火災に遭った焼け焦げた痕跡を今なお見ることが出来、歴史の深みを感じさせられます。
手長神社すぐ近くにある聖徳神社。祠の両脇に鎮座するシャチホコを見つけました。なんで神社に?と訪れるひとは皆、不思議に思うでしょう。高島城の天守閣再建の話が持ち上がった時、上諏訪工匠組合が製作したシャチホコです。しかし、昭和の大恐慌のあおりを受けて天守閣再建計画そのものがなくなり、シャチホコは聖徳神社に奉納されたそうです。瓦製のシャチホコは三段に分けてつくられ、後からつなぎ合わせられています。格好いい。
甲州街道最後の宿場である上諏訪宿。「上諏訪宿問屋跡」はかつて問屋として荷物の継ぎ立てをする所でした。上諏訪宿では問屋が本陣も兼ねていたそうです。
また現在は公園になっている「高島城柳口御役所跡」は城下町から高島城へ向かう入り口でもあり、高島藩の民間向け窓口ともいうべき柳口役所が置かれていました。
諏訪湖の御神渡り拝観という特殊な神事を司る神社で、天和3年(1683年)以降の御神渡りの様子を克明に記した「御渡帳」が伝わっています。もともとは現在の高島城がある場所に鎮座していましたが、高島城築城の際に氏子である村人とともに現在の小和田地区に移りました。
かつては付近の川から直接船を乗り付けていた小幅の水路が、現在は趣ある路地になっています。建ち並ぶ農家の裏手が船着場になっており、農機具や肥料・収穫物を積み込んだり取り入れたりしていました。
上諏訪の路地をあるくと諏訪湖へつづく川をたくさん見かけます。かつての諏訪湖まわりは泥湿地が広がり、諏訪湖へつづく複数の河川がありました。泥湿地や水路を、荷物を運ぶ船が通る船線としてまちのひとたちが暮らしに取り入れていた痕跡が垣間見えます。
水路を上手に活用していたのは住人だけではなく当時の政府も同じ。高島藩では貢粗米を収納するために大きい蔵を五棟つくりました。さらには蔵から川につながる長い御蔵溝を通してそれぞれのお蔵に直接船がつけるようにしたそうです。水路を活用したまるでdoor to doorのような運送方式・・・お仕事の効率も上がりそうです。諏訪湖や多数の河川など水辺環境を利用したQOL(Quality of Life)の向上に感心しました。
江戸時代を通じて歴代藩主の居城であり、諏訪地方の政治の中心であった高島城。築城当時は諏訪湖が本丸まで迫り、周辺は泥湿地で増水時は水没していたことから、浮城の異名を持っていました。城下町から本丸までの登城ルートは今もはっきりとしており、駅前から城に向かって歩いてみると、当時の城郭のすがたを感じ取ることが出来ます。
上諏訪駅から高島城へ向かって10分ほど歩くと左手に立派な蔵が見えてきます。上諏訪の味噌屋・丸高蔵さんです。
店舗と味噌蔵の3つの建物は大正時代に移築され100年以上が経ちます。店舗は本棟造りの切妻屋根の民家、蔵は紡績工場と土蔵造りの酒蔵だったそうで3つとも登録有形文化財に認定されているものです。当時の面影をそのまま残した貴重な建物です。丸高蔵のお味噌を使ったランチも優しい味でとても美味しいのでおすすめです。
「日本100名城」。財団法人日本城郭協会が平成18年に全国の城を歴史的経緯や文化財価値などさまざまな視点から評価した、日本の名城一覧です。信州も松本城をはじめ5つの城が選定され、さらに平成29年発表の「続日本100名城」では、佐久市の龍岡城と諏訪市の高島城が選定されました。今回のまちあるきの舞台である諏訪の高島城は、令和2年に復興天守再建50年の節目を迎え、市民の憩いの場として親しまれていますが、さて高島城の城郭と城下町とは、いったいどのようなものだったのでしょうか?
高島城は安土桃山時代後期に築城され、当時は諏訪湖が城の間際まで広がっていたことから浮城とも呼ばれていました。城郭(城の類型)は本丸から二の丸、三の丸まで一直線に連なっている、連郭式と呼ばれる形態をしており、本丸の全周を二の丸、三の丸が取り囲むような形式にならなかった所以は地形と地質にあるとされています。
二種類の古地図をご覧ください。ひとつは寛文4年(1664)に作成された御枕屏風と呼ばれる屏風絵。もうひとつは慶應4年(1868)作成の高島城下町絵図です。いづれの地図にも城下町から城へ向かって伸びる一本の道を見ることができます。現在の上諏訪駅南側の踏切付近から続くケヤキ並木の道がそれです。諏訪市教育委員会によると、この細長い砂州のような地形の道は城下町から登城するための唯一のルートとして造成されたもので、通称「縄手」と呼ばれました。城周辺は泥湿地が広がり、増水時は水中に没するような土地だったらしく、縄手のような道が必要だったのでしょう。
城の構えとしては攻め難く守りに有利な土地と言えますが、同時にまちづくりには極めて不向きな土地でもあったわけです。現在は土地改良などを経てまちとして整備された為に地形や地質の特性を掴みづらくなっていますが、縄手の並木道が緩やかな弧を描いて続いているあたりに、築城当時の痕跡を見ることができます。また、湖水面が今より高かったとされる諏訪湖。古代の道はその湖岸をぬうように一定の標高沿いに通っていたようで、近世に築かれた上諏訪の宿場町や甲州街道もまた山裾に近い位置にあり、それは泥湿地の地形や地質を避けたが故と考えると合点が行きます。
さらに古地図鑑賞を進めると、右側に宿場町の通りから突出しているひとつの街区が目に付きます。諏訪湖の冬の風物詩「御神渡神事」を執り行うことで有名な八剱神社の鎮座する、現在の小和田地区です。この地区は高島城築城の折、城が築かれることになった土地に暮らしていた村人が移り住んだまちになります。公共事業による強制立ち退きの為、同村の住人には漁業権など優遇措置が図られたともいわれていますが、となると船による往来の可能な水辺に接していることが重要です。同地区の端には諏訪湖と直結する複数の河川があり、街道沿いではなく突出して新しいまちを構築したのは、この水路の存在があればこそだったのかもしれません。
城郭と城下町の構築にはかならず地形や地質が深く関わっています。それは山であり、川であり、湖であり、そして湿地であり・・・。中世以来、山城を中心に城の林立した諏訪地方でも、それは例外ではありませんでした。高島城と上諏訪の城下町は泥湿地という悪条件を逆手にとり、諏訪湖や多数の河川など水辺環境を巧みに利用し、城とまちの基盤を築き上げ、製糸業の繁栄に繋がる諏訪の賑わいを創出したのでした。私たちも過去の古き時代のまちづくりから多くを学び、まちづくりや暮らしづくりに役立てていければと思います。